教育や家庭においてゲームが悪と見なされている印象を改善できないものか

子どもを授かったり、職に就いたりしてから特に強く感じるようになったことがある。
それは各種娯楽が悪と見なされているということ。

例えば、ゲームや漫画、アイドル、ライブに行くこと、などなど。
そんな中、以下のような記事を読み、強く共感した。

– デジタル時代を生き抜く ユーザとクリエイター育む―東京大学大学院情報学環 馬場章教授|教育マルチメディア
http://www.kknews.co.jp/maruti/news/2013/0805_1a.html

馬場教授は、教育において「ゲーム」を捉えなおす時期にあると話す。

日本において、ゲームは教育と対立したものであり、お互いにマイナスの影響を与えている状態にある。「ゲームにはまって引きこもりになった」とよく言われるが、実際に取材してみると、引きこもりながらもゲームを通して社会参加をしていたり自己実現をしていたり開放感を味わっているという面もある。

デジタル時代にふさわしいユーザとクリエイターを育むためには、斬新な発想でコンセプトを生み出すことができる「ひと」の育成が重要。そのためには「ICTを使って教えること」ではなく、「ICTそのものを教える」ことにシフトしていく必要がある。

学習の一環として、開発者、利用者それぞれの立場を意識して本質を知り、理解を深めていくこと。最先端部分を正確に理解することは教員にとって難しい面もある。しかし、原理は変わらない。ゲームの仕組みやテクノロジーは様々な仕事に活かすことができる可能性があり、技術が進歩するほどチャンスや可能性がある。何がチャンスでどこに可能性が示されているのかを知る近道は、「原理」を知ることにある。

これを実現するには、保護者や教師の役割は大きく、夢中になりすぎる自分を俯瞰しつつコントロールすることも含め、それぞれの学齢に応じて伝えていく必要がある。保護者が子どもにゲームを与えながらその影響がわからずに反対を唱えたり、逆に与えっぱなしにしたりするのではなく、ゲームや、ゲーミフィケーションの発想を生活に活用できるレベルにまで高めることがゲームリテラシーであり、原理を知って積極的に使いこなそうとする意識を持つことが国民の水準を決め、世界で遅れをとらないために必要なことといえる。

以前、以下のようなエントリーを書いたが、この頃からゲームに対する自分の考え方がまとまってきていたのかもしれない。
– Normal is Best.: ドラクエ3とドラクエ6からキャリアパスを考える
http://hkawahara.blogspot.jp/2012/09/36.html

仕事では今時の高校生と接しているわけだけど、一様にして、生徒たちは教員にゲームをやっていることを開示しない。
立場上必要なことをこなしているのであれば、存分にゲームなどの娯楽に時間を費やすべきだと考えている。
でないと、大人になってから娯楽に時間を費やしてしまうようになってしまう。
一般的な成長を遂げていれば、娯楽や趣味というのは、徐々に「飽き」てきて変わるもの。
自分の子どもを観察していると特に思う。

少し前に、息子がプリキュアを好んで観ている時期があった。
妻などは少々心配していたようだけど、自分は全く感じていなかった。
予想通り、半年もしないうちに、息子は飽き、また自分の性別にも気づいて遠ざかっていった。
ただ、やはり面白そうな感覚は残っているようで、ふと目についた時には興味を示すことはある。
しかし、その興味もすぐに薄れ、手放していた。

幼少期に娯楽が禁止されていたり、時間や金銭面に何かしらの制約があると、思春期あたりから執着する姿勢が見えてきてしまうのかもしれない。
そんな考えなので、自分としては早いうちに娯楽には時間を費やしきっておくべきだと考えている。
今のうちに楽しめることを楽しんで、飽きておくように。そんな指導をしていきたいものだ。
だって、子どものころにスゴく楽しかったオモチャや遊びは、今となっては面白みを感じないでしょ?

そんな中、自分がここ2ヶ月ほどパズドラにハマって家事への取り組みが疎かになっている点が否めないので、ゲームが悪と見なされても仕方がないかな、と思うところもあり、おまえが言うな、と妻に言われてしまうのが少々こわい。

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